pipipipikopiko’s blog

名古屋のプロダクトデザイナーのブログ。

パワポを捨てろ!

はてなブックマークを見ているとよくデザイナーでない人のためのデザインtipsにたくさんブックマークがついているのを見かけます。

営業職の方が多いのでしょうか、エンジニアの方も関係あるのでしょうか、プレゼン資料の作成に苦労されている方がとても多いようです。

私は13年デザインをやってきた経験上、デザイン初心者にはこの手のハウツーはあまり役に立たないと思っています。

なぜなら、デザインは常にケースバイケースであり、こうすれば間違いないというような公式は存在しないからです。

だから、ごく一部の天才を除いて、デザインができるようになるには豊富な経験や見識が必要なのです。近道はありません。

逆に言えば、ちょっと解説見たくらいでできるようになるならデザイナーという職業は成り立ちませんからね。

 

では、今まさに現場で苦しんでいるデザイン初心者に救いはないのか?

うーん…残念ながら、ないんでしょう。

そもそも「見栄えのするプレゼン資料」って、それはもう立派なデザイナーの仕事です。

デザイナーでない人がデザインをしなければいけない状況こそが問題であり、これが変わらないと余分な苦労はなくなりません。

実際は社内資料ならワードや手書きの図さえあればほとんどのことは足りるのではないでしょうか?

逆に、どうしても見栄えが重要な社外向け資料ならちゃんとデザイナーに依頼するべきです。

専門性という意識が低いのか、1人になんでもやらせようとするのは良くない文化です。

この問題は低い労働生産性や、クリエイターの社会的地位の低さ、日本の全体的なデザインの質の低さなどに直結していると私は考えています。

 

先ほど救いはないと結論してしまいましたが、上司や組織の意識改革ができるなら現状を打破できるかもしれません。

あるいは現実的な方法として、よいソフトを探してみるのも手かもしれません。

よくパワポのテンプレがひどいとか使えないといった意見を聞きますが、ではパワポが駄目ならイラストレーターを導入すれば問題は解決するのかといえば、しませんよね。

むしろパワポは自由度が高すぎることが問題だと私は考えています。

どれをどうやって構築すれば良くなるのかを自分で判断しなければならないわけですから初心者には手に余るわけです。

だから逆に色もレイアウトも何もかもガチガチに決められたテンプレートでつくれるソフトがあるならば、そちらを採用すべきでしょう。

アイディアをビジョンと呼んでみた話

とくに言いたいこともなかったので長らく放置していましたが、ひさしぶりに書きます。

 

アイディアって何?と、ふと思うことがあります。

とにかく定義があいまいな「アイディア」という言葉。

デザインの現場ではデザインアイディア=アイディアと呼ばれるわけですが、

実際には機構のアイディアというのもあるしコンセプトアイディアとか、見積のアイディアだってあります。

ひとつひとつ明確に区別していかないと、紛らわしくて業務上のコミュニケーションにも支障が出ることがしばしばあります。

また、デザインアイディア=アイディアと書きましたが、正確にはグッドなデザインアイディアのことのみを指してアイディアと呼ぶのが通常です。

本来の意味でのアイディアはどんなものでもアイディアで、全く話にならないひどいものでもアイディアはアイディアなのですから、

デザイナーがクライアントに提示するものを「アイディア」とひとくくりに呼んでしまうのはあまりにも乱暴だと思います。

これらは単に言葉の使い方の問題に過ぎないとは、私は考えません。

その言葉の持つ意味によってデザイナーとクライアントの認識に齟齬が生じたり、場合によってはデザイナー自身の認識もまたおおいに歪んでしまうのです。

ちなみに、アイディア出しのテクニックをいくら学んだところで何の役にも立たなかったという経験は多くの人がしていると思います。

それは、アイディアを出すテクニックはあっても良いアイディアを出す(見いだす)テクニックはないからです。

これもまた言葉のあいまいさから多くの人が誤解していることです。

 

このように、日々アイディアという言葉に違和感を感じながら過ごしていたのですが、

あるとき「ビジョン」と呼んでみたらどうだろうかと思いつきました。

アイディアではなく、ビジョン。

「ビジョンA、ビジョンB、ビジョンC・・・」

「おすすめのビジョンはこちらです」

「まぁ一応出してみましたが、このビジョンはあんまりですね・・・」

というセリフとともに冗談半分で周囲に提案してみたりもしました。

このセリフはもちろん皮肉で、

「良いアイディア」というのはつまり「ビジョンを示すもの」であるということです。

最初から最後まで、全体のビジョンを思い描くことができるデザイナーこそ私の考えるデザイナーです。

そしてビジョンというのは、そういくつもあるものではないということが重要な視点だと思います。

業種や組織構成、デザインの対象にもよりますが、たくさんアイディアを出してどれがいいですか?ということをデザイナーにさせるのは時間とお金とやる気を浪費させるばかりであまり関心しません。

しかし私の観測範囲では企業に所属するデザイナーの業務は上に書いたような状態が多そうです。

大企業で人材も充実していればデザイナーの役割分担が狭く深くなっていくのも理解できます。

しかし、あくまでデザイナーはビジョンを見据えて仕事をしなければなりません。

東京五輪エンブレム盗作問題について補足したい

最近東京オリンピックに関連して、デザイナーという職業に日本中から注目が集まっている。
デザインとはどういう行為で、デザイナーとはどういう職業なのかを世間に知っていただく恰好の機会であったのだが、現実は残念ながら真逆の結果になってしまっている。

新国立競技場の建設費用問題に、東京五輪エンブレムの盗作問題である。

私の見聞きした範囲では、デザイン業界の反応はほとんどが概ねデザイナーおよび建築家に問題はなかったと判断しているようだ。
私ももちろんそう考えている。
それだけに、ネットやニュースにみられる国民の反応に歯がゆい思いを抱いている。

とくに気になるのはエンブレム盗作問題のほうである。
この問題について私ごときが言及したところで何の影響力もない。しかし、現状この問題について交わされている議論および記者会見のコメントをみるに、私が真っ先に説明するべきだと考えている事柄にはいまだ触れられていないようだ。

さて、今回の東京五輪エンブレムはベルギーの劇場のロゴマークやスペインのデザイン事務所の作成した壁紙と似ているのか、そうではないのか。
まず、商標としてはクリアーしているそうなので法的には問題ない(仮に佐野氏が劇場のロゴマークや壁紙を知っていて盗用していたのだとしても)。この点だけでも五輪エンブレムを変更する必要がないことは明白である。
だが、問題として深刻にとらえるべきは、似ているかどうかではなく、盗作したのかどうかのほうである。
デザイナーや芸術家にとって盗作が発覚するということは社会的信用を一気に失う致命傷なのは言うまでもない。
だから、佐野氏も会見ではまず盗作ではないことを一番に主張していた。
佐野氏擁護派のデザイナー達も、プロとして安易な盗作をするようなリスクを冒すはずがないという意見が多数だった。

しかし、こうした主張だけでは本質的な説明にはならないと私は考えている。

誤解を恐れずに言えば、そもそも盗作を絶対にやってはいけないことだと考えているのは、実はデザイナーではなく世間のほうなのではないだろうか。
ゼロからの発想というものは実際にはあり得ない。何かを寄りどころにしたり参考にしたりすることの積み重ねでオリジナルが生まれる。つまり創作と盗作の境界は曖昧であり、それはクリエイター自身がよく知っていることであり、世間が誤解していることなのだ。

そして作品をオリジナルたらしめるもっとも重要なことは文脈である。
極論を言えば、今回の五輪エンブレムが仮にベルギーやスペインのものと全く同じ図案であったとしても問題ないかもしれない。
デザインには必ず課題があり、デザインとはその答えである。違う課題の答えをそっくりそのまま別の課題に当てはめてもうまくいくはずがない。だからそんな無駄なことははじめからしない。
私は、デザイナーが盗作をしない理由はこれが一番ではないかと考えている。
つまり、東京五輪エンブレムと海外の似ているとされる2点の作品は、別々の課題にたまたま似たアプローチで答えたというだけで、やはりそれは全くの別物なのである。いや、仮に海外の作品を知っていたとして、そのアプローチを参考にしたとしてもそれは同じことである。

今回の盗作問題にしろ、新国立競技場の問題にしろ、世間の思っているいわゆる「デザイナー」像というものがあり、それが叩かれているにすぎないと私は感じている。
彼らに大きな非はないのだが、安藤氏や佐野氏をはじめこの問題に関わったデザイン界隈の方々には、本当のデザイナー像をこの機会に世間にしっかりと伝えて欲しかったと私は思っている。

「高級感」をオーダーされたらどうする?

デザイナーなら一度は「高級感のあるデザイン」というのを考えたことがあると思う。

あまり具体例は出せないのだけど、高級感を出してほしいというオーダーは本当に多い。

できるだけ高く売りたい、高く見せたいと思うのが作り手の当然の心理であるから、

言わなくてもほとんどすべての商品デザインをする際に要求されていると思っていい。

 

高級感という言葉は日常的によく使う言葉だけれど、よく考えてみればかなり謎な言葉である。

高級というのは単純にとらえれば値段が高いという意味だが、大抵の場合は金目感とか、ラグジュアリーな雰囲気にして欲しいと言っているわけではない。

また、本当に高価なつくりや素材にするということでもない。

要は百貨店で売るものなのにホームセンターで売っている同種の商品と競合しては困る

ので、それなりに箔がつくようにして欲しいということだ。

もう少しそれらしい言い方をするなら、価格相応感といったところだろう。

この価格相応感というのが厄介なのだ。

 

デザインはある意味、いかにお金の価値観を超越するかが勝負だったりする。

対象のユーザーがいて、それに向けてベストなデザインを施すという考え方からすれば、例えばクルマの車格やグレードの違いについても、それぞれに別の対象ユーザーがいて、それに合ったデザインをするべきである。

そこにあるのはユーザーの価値観の違いであって、予算の違いではない。

単に松竹梅を揃えて、安っぽいデザイン、普通のデザイン、高そうなデザインというようなことはあり得ないのである。

だから、対象のユーザーはどんな価値観をもっているかをとらえ、彼らにとっての高級とは何かを考えるべきだ。

価値観によって、大きいから高級だ、マグネシウム製だから高級だ、画面以外なにもないから高級だ、という論理が成り立つ。

 

こうやってオーダーされた言葉を咀嚼することは単にアイディアを出すためだけにやるのではない。

もっと重要なのは、クライアント自身がこれから開発しようとしている商品について理解を深めることができるという点にある。

「高級」というラベリングは使いやすくて便利な反面、本質を覆い隠して思考を停止させてしまう効果もある。

こういう場面に直面すると、言葉という表現手段が万能ではないことに気づかされる。

 

デザイン思考を身につける難しさ

近年はデザインの重要性というのが広く認知されるようになり、「デザイン思考」なんて言葉がもてはやされている。
そういうムーブメントが後押ししてか、自由にアイディアを出して提案する特別な組織を立ち上げる企業は多いし、あるいは、社内のスタッフにデザイン思考を身につけさせようと、僕らのようなデザイナーに指導を依頼するケースもある。
しかし、こうした活動が実を結び、デザインの質が向上したり、デザイン思考が実践できるようになった企業というのはほとんど増えていないように思う。
 
ビジネスの世界では、確実な収益を見込むためになるべく効率のいい手段を取りたがる。その結果、評価しにくいこと、確実性の低いことは避けられる傾向にある。
当たり前といえば当たり前だが、こうした効率主義だけでは伸ばせないことは結構多いと感じている。
そのひとつの例が「デザイン思考」というものだと思う。
 
デザイン、とくにデザイン思考と呼ばれるものは、効率学習が難しいものの代表だ。
デザイン系の大学ではどこも一応それらしいカリキュラムが用意されているが、
実際のところデザイナー育成の方法論というのはほとんど確立されていない。
こういう講義を受ければわかるとか(有名デザイナーの講演とかね)、この本を読めばわかるとかいうものでは決してない(アイディアの出し方の本とかね)。
言葉でいくら説明されても、本当の意味で理解するのは困難である。
とにかく実践あるのみで、試行錯誤の末に各々何かを感じ取り、自分のものとしていくのだ。
そんな曖昧で不確実なものだから、大学に入ったからといって将来デザイナーとして活躍できるようになる保証はどこにもなく、学生は大層不安だ。それでもとにかく自分の才能を信じて努力するしかない。
自分にはセンスがないと言ってクリエイティブ職を諦める人は多いが、そう言うわりには実際やる前に諦めていることがほとんどである。
たしかに、職業選択についてそんなリスクを侵すことは簡単なことではないと思う。
しかし、何事もそういうスタンスでは到達できない場所というのは確実にある。
 
そういう経験をしてきた人から見ると、
他部署で優秀だった人をかき集めて、商品を何か考えろと言ったって一朝一夕にできることではないし、
僕らのようなデザイナーを呼んで、開発担当者たちを教育してやって下さいと言われてもその程度では所詮無理な話だと思ってしまう。
何でも教えてもらえばできるようになる、という誤解が蔓延していることはすごく問題だと思っている。
 
※余談だが、デザイン思考をする本職の人間としては、デザイン思考という言葉を使うのはなんだか気恥ずかしい。なぜだろう?

デザインコンペなんてやめよう。

前回はデザインコンペに参加するデザイナーの動機について書いた。

 今回はコンペを企画する側についての話。

書いてみるとすごく当たり前の事で、マヌケな説明をしてるなぁと思うのだけど。

ざっくり言えば、デザインコンペなんて意味がないからやめよう、というのが今回の話。

 

ネット界隈でデザインコンペといえば、少し前にランサーズで行われたコンペの記事が話題になっていた。

 

20万円かけてランサーズでロゴマークを募集してみてわかったこと - クートンブログ

 

僕ははっきり言ってランサーズをあまり良く思っていない。

デザインを受注する側としては当然のこと、発注側にとっても大いに問題がある仕組みだと考えている。

それが上の記事にはよく現れている。

 

コンペを実施するクライアントの多くが、根本的な誤解をしているように思われる。

 

「コンペ」というと、徒競争のように競って一番能力の高い人が優勝するものだと考えがちだ。

しかし、デザインコンペに限っていえばその捉え方は誤りの元だ。

デザインを検討する上で重要なのは的に当てることであり、どれだけ中心近くに当てられるが問題なのである。

デザイナーのスキルがどれだけ高くても、闇雲にアイディアを出しては非常に効率が悪い。

的に当てるには、このアイディアは近いのか、遠いのか、その都度フィードバックすることが最大の近道である。

つまり、ある程度のスキルをもったデザイナーを一人据えてしっかりコミュニケーションをとりながら進めれば、ちゃんと満足のいく水準のものが出来上がるのだ。

うまく行けば一案で完了することだって不可能ではない。

 上記の記事でいえば、20万円で380案集まっても採用するのは一案だけなのだから、全体としては379案分の時間と労力が無駄になっている。

費用もたぶん20万も出さなくて良かったんじゃないか。

 

デザインコンペの問題は、この「コミュニケーション」を疎かにしがちな点にある。

その結果、発注側にも受注側にも膨大な無駄が発生するのだ。

ランサーズにおいては最初から「コミュニケーション」がとりづらいシステムなのだから、全然駄目なのである。

 

 

ちなみに。

前回言及したのはミッドタウンだとかコクヨだとか、学生も参加OKなJDNの登竜門に掲載されているような有名な一般公募のコンペのこと。

これらは受賞作品を実際に商品化するものもあるが、それだけではなくコンペ自体がイベント的位置づけであったり、企業イメージの向上も視野に入れて行われると思うので、企画する側にも意義があるのだろう。

また、建築業界におけるコンペなど、予算や色々な要素が含まれる場合は純粋なデザインコンペとは区別しなければいけないと思う。

デザインコンペにまつわるジレンマ

 先日、某デザインコンペの入賞者に某知人の名前があった。

その人は僕が今まで見てきたデザイナーの中でも5本の指に入るほど「デキる」人だと認識している。

学生の頃からコンペ入賞多数という非常に輝かしい経歴である。

(しばらくは見かけなかったが、また最近コンペに参戦するようになったのは何か理由があるのだろうか・・・。)

 

コンペに参加する動機

みなさんがコンペに参加する理由は主に、賞金目的、腕試し、売名目的のいずれかだと思う。

とくに個人でやっているデザイナーは売名と生活費が直結しているところがあって、必死に参加していたりするんじゃないだろうか。

僕もプロになってから数回コンペに応募したことはある。理由は売名というよりは、マンネリな現状に我慢ならず何か行動せねば!と思ったからである。

その時以外にも出そうと思ったことは何度もあるが、結局最後まで作り上げるモチベーションが維持できなかった。

最初はヒマな時間にアイディアを考えたりするのだが、出ないな〜、出ないな〜、といいながらいつの間にかフェードアウト・・・。

普段の仕事では決してそんなことはないのだが、いったい何が違うのだろうか。

 

 いつものデザインとコンペのデザインの違い

まず、

①コンペである以上、合格ラインではなく、1番を目標にしなければならない

普段の仕事はクライアントに課された条件があり、それをクリアーしていればOK、クライアントも満足、という構図だ。

それに対して公開コンペでは合格ラインを超えた良案が他にもたくさん出てくるわけで、

その中でもひと際キラリと光る案を出さなくては勝てない。

 

そして、

②やってもやらなくても自由

仕事では責任がともなうので怒られないように必死でやるが、コンペは完全に自分との闘いである。

 

最後に

③換金率が非常に低く徒労に終わる可能性大

単純に確率で言えば、コンペに参加しても99%くらいで賞金ゼロである。

もし佳作程度を受賞しても5万円とか10万円とか・・・

賞金目的でなくとも普段の仕事量と比べてまったく割に合わないと思うと、なんだか馬鹿らしくなる。

 

”コンペに勝つ”≠”腕のあるデザイナー”

①で言った”キラリと光る案”というのがクセモノである。

本来ならある程度の水準に達したデザイン案に順位をつけるのはとても難しい。ナンセンスだと言ってもいい。

それなのにどうやって順位をつけるのか?

受賞できなかった作品が本当に受賞作品より劣っていたとは限らないし、

そもそも審査員の見方自体が偏っていたりする可能性もある・・・。

一説にはコンペで勝つにはテクニックがあるのだそうだ。

例えば審査員のコメントや過去の作品をじっくり調査して、審査員が好みそうな作品を出すとか、本当かどうかはわからないけれど・・・。

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そんなことを考えると、実力があろうが無かろうが関係ないじゃないか、あ〜アホくさ、となってしまうのである。

 

しかし、一方でコンペで連戦連勝している人を見ると

スゲ〜!と思うと同時にクヤシ〜!と思ってしまう。

手っ取り早い売名としてコンペはやはり強力だし、Gマークなんか獲るよりよっぽど箔がつく。

納得できないことはあれど、それには目を瞑ってバンバン挑戦したもの勝ちである。

わっかっちゃいるが・・・でも・・・なかなか・・・。