pipipipikopiko’s blog

名古屋のプロダクトデザイナーのブログ。

現時点での経済についての理解

かつてバックミンスター・フラーが著作に書いていた(ことを適当にアレンジして言うと)。
富は増え続ける。

建物が建ったり食料が簡単に手に入るようになったり。

そのうち食べるために働くなんてことはなくなって、純粋に社会を発展させたい人が余暇で活動するようになる、と。


現状どうかというと、全体的には昔の人類より確かに豊かにはなってる。

おそらく今なら人類全体に衣食住が足りるくらいの能力があるのではないだろうか。

(これはつまり紛争の大きな原因のひとつが取り除かれるということだ)
しかし未だそれは実現されていない。

 

競争原理のもとに生産活動をすると、より良いものをつくり戦い続ける宿命にある。

これが素早く富を作り上げる、現状最適な仕組みである。

そして、戦うにはより資本があるほうが有利なためプールし巨大化していく。

しかしこの構図は一握りの富裕層と大量の貧民を生み出す致命的な欠点がある。

GAFAMなどが台頭して超絶ハイスペックな製品やサービスを作っている現在、その横では貧困にあえぎ食べる物も住むところもない人が沢山いる。


なぜ貧困があるのかといえば仕事がない、あるいは十分な賃金を獲得できる仕事がないからである。

仕事(労働)がない状態はフラーの話に従えば本来最&高なはずである。

しかし現実は、最先端であるが不要不急のもの・サービスをつくる、意味が希薄とも言える労働をしなければ生きていけない。

しかも皮肉にも意味が無い仕事ほど賃金も高いのである。

 

そして、この金持ちと貧乏の構図が極端になっていくと買える人がいなくなる。

つまり供給過剰で、不景気になる。
お金持ちだからといって無駄に食べる量の10倍の焼肉をオーダーしたりはしないので、やはり同じシステムに組み込まれた貧困層へ富の再分配をしないと経済は成り立たない=お金持ちも生きていけないのだ。

 

問題は需要と供給のバランスを個人レベルでとっていることにある。

お金持ちは供給過剰、貧乏人は需要過剰の状態である。

これを全体で需給バランスを整えるということはつまり、

「ただ消費するだけの市民」を投入するということではないだろうか。

(もちろんこれもどこかで読んだ話である)
個々人で需要と供給のバランスをとるのではなく、全体で需要と供給のバランスをとることで経済が持続する。

ナチュラルボーン修行僧

一人暮らしをしておよそ10年。

実家に暮らしていたときと一人で暮らしていたときのスタイルの違いに自分の個性が際立つことに気づく。

整理整頓のルール、掃除の頻度、備蓄食料の種類や量などなど…

傾向から分析すると、何事も把握、管理できる規模で留めておきたいという想いが強い。

とにかく適度が良い。精神的忙しさが嫌いなのである。

物をたくさんストックしないし、耐久財もなるべく買わない。管理するのも、捨てるときのことを考えるのも非常に煩わしい。

適切さを重んじると物欲や消費欲といったものが消え去る。

貧乏人(実際そうだが)か修行僧のようである。

そう、まさに修行僧。

だが本人は無理もしていないし、結構これで満足しているのである。


仏教では煩悩を捨てろと言われるそうだが、

実際、欲がないほうが心は豊かなのではないだろうか。

何かが欲しいという気持ちは、つまり足りていない、不幸であるという気持ちでもある。

同じ状態の人が二人いるとして、足りていると思っている人は幸せだし、足りないと思っている人は不幸だ。

幸不幸は相対的な感覚である。

だとすれば、自分の外にあるものではなく、内にある基準と比較したほうがよっぽど楽に幸福を得られる。


しかし、否応にも発展を迫られる資本主義社会では、折り合いをつけるのが難しいのかもしれない。

生きるのはサボれない。

モラトリアムという映画を観た。

とくに感想を書こうというわけではない。


出てくる主な人物は働きもせずふらふらとしていて、世間的にはいわゆるダメ人間ばかりである。

しかし彼らは彼らなりに葛藤を抱えていたりして、行動こそ起こせていないものの必死にもがいているのだ。


映画を観て、実は頑張ってない人間などいないのではないかと気づいた。

ある目的に対しての達成度という意味で頑張っている、サボっているというのはあるにしても、自分の人生についてはみんな真剣なのだ。

そう思うと、人にあーしろこーしろと説教を垂れるなんてことはますますできなくなる。

それはとても視野の狭い見方だ。

自分の思慮の浅さを露呈しているだけだ。

問題を解決するということは、相手の考えていること、思っていることに耳を傾け、同じ目線で考える以外にないのかもしれない。


過去の行いを反省しつつ、この気づきをこれからに活かそうと思う。

個人的なデザインにおけるモチベーションの話

私はよく誤解される。

Q「何のデザインがやりたい?」
A「どの分野がやりたいとかは別にない」

Q「どういうデザインがしたい?」
A「どうしたいとかはない。そういうものじゃない」

Q「自分の作品には自分の色を出していきたくない?」
A「作品じゃない。そういう姿勢は如何かと」

日頃、こういった挑発的ともとれる言動ばかりしているためか同業者にすらドライだ、冷めてると言われがちである。
‪しかしデザインをすることは人一倍好きなのだ。
だから余計に周囲の人には理解できないらしい。
私自身、どう説明すればいいのかわからなかった。

「デザインが好き」といってもその要素は多岐にわたり、モチベーションは人それぞれである。
工作が好き、絵を描くのが好き、カッコイイ形が好き、自己表現、お客さんや同僚とのコミュニケーションが好き、肩書きへの憧れ、などなど…
これらは非常にわかりやすい例で、だいたい世間の認識とも一致している。
しかし私にとってこれらは必要条件かもしれないが、十分条件ではない。
モチベーションの芯の部分は別にある。
私のマインドは、ひとつは起業家に近いのではないかと最近感じている。
徹底的にビジネス目線であり、成功=利益を出すことと目的は一致している。
しかしながら、お金がモチベーションなわけではない。
社会にウケることが最高に面白いのである。‬
そこには、人間の心理や行動原理、物理、経済、これらの簡単に答えの出せない事柄から予想を立て、見事的中させるゲーム性もあれば、
単純に人と共感できる喜びもある。
だから、対象の分野にはとくに拘らない。
自分の我を反映させるのは、自然と導き出される「良いデザイン=ビジネス的成功」を歪めてしまうのでそれも私の望むことではないのである。
ちなみに、自分の色=作風というのは自然と滲み出てしまうものではないかと思っている。
人にはそれぞれの人生観や哲学があり、それを通してしか社会と対峙できない。
だから、どんなに多岐にわたる仕事を手がけていても徹底的に情熱をもってやったものならば、並べてみるとその人の人格や価値観が浮き立ってくるのではないかと思う。

自撮りのデザイン

デザインという言葉の近年における用法はモノだけでなくコトにも広がっている。キャリアデザインとかグランドデザインとかいうのがそれである。
ここでのデザインは計画というニュアンスであり、英語の元の用法に近い。
一方、いわゆるクリエイティブな業界で使用される「デザイン」を広義の意味でとらえると、
「観測者を意識してなされる行為全般」であると言えるだろう。
これはブランディングと言い換えることもできるように思われる。セルフブランディングという言葉があるが、これはつまり他者を意識した上での自分自身のデザインである。

ここで自撮りについて考えてみたい。
自撮りという言葉は単に自分自身を撮影するだけではなく、より良く演出し、それを公にするという意味まで含んでいる。
自撮りはまず自らを肯定し、それ以上に他者から肯定されたいという思いが内在している。
これに対しネガティヴな感情を示す人も少なくない。
それゆえ自撮りをネットにアップする際は「自分まじブス」「頑張って撮った」などと言い訳のコメントを添えたりする人が多い。
あるいは何か別の話題に添える形で自撮りを公開する場合もある。あくまで自撮りが目的ではないという言い訳にするわけである。
しかし、快く思わない人はそういった思惑を敏感に感じ取る。隠しきれていないのである。
これはセルフブランディングの観点で言えば失敗と言えるだろう。
自撮りをするのは若い世代に多い。自分を客観視したり他者の感情を汲み取れない未発達の精神がそうさせているのかもしれない。

しかし、それはそれ。私は自撮りをネガティヴに捉えることはしないよう努めている。
ポートレートを撮ろうとする行為は、被写体を肯定する気持ちからくるものであり、自撮りであろうが他人に撮られるのであろうが自己を肯定することは健全なことである。
いっそごちゃごちゃ言い訳せずに自分大好きと言って載せるほうがむしろ反感は少ないのかもしれない。
逆に、本当に何かを訴えたいときに自撮りや主体者の想いなどを無自覚に混ぜ込むのは注意する必要がある。
俺たちクリエイターだぜ?イケてるだろ?などというマウンティングな態度で訴えられても嫌われるだけである。

つまらないデザイン

プロダクトデザイナーであれば、とある製品に施された造形意図を読み解くことはそれほど難しくはない。

初代iPadの背面の丸みは少しでも薄く見せるため内蔵物を中心にレイアウトする工夫であるし、軽自動車によく見られるホイールアーチ周りの谷折りは軽自動車枠最大の車幅を確保しながら立体感や力強さを出来る限り強調する工夫である。

これらはいわばプロダクトデザインの常套手段であり、先人たちが書き連ねてきた教科書の様なもので、たいへん尊いものである。

だが、重要なのはこれらはテクニックでありそれ以上でも以下でもないということだ。

テクニックだけで人の心を動かすことはできない。その根本に確たる思想や価値観があってこそはじめてそのテクニックが活きてくるのだ。

 

世の中には本当にうんざりするほどモノが溢れていて、しかも今やそのどれもが綺麗にデザインされている。

しかしどれも同じようにつまらなくはないか?

私たちの心をときめかせるようなモノはほんの一握りではないか?

その理由のひとつがまさに根本であるはずの思想や価値観の欠落にあるのではないかと私は考えている。

 

デザインのすべきことは対象に上から下までブランド服を着せて憧れの読モに1ミリでも近づけようと必死になることではない。

対象のいいところを見いだし、良さが引き立つ服を吟味することだ。

デザインの答えは常に内側にあるのだ。

デザインを評論するときに気をつけたいこと

東京どころか名古屋で消耗しています。

 

先生をやっているわけでもないのに昔から学生作品に触れる機会が多く、最近も卒展に足しげく通っていました。

そこで気づくのは、学生作品を見てあーだこーだ評価している私もまた年々成長していること、そしてデザインを評価するという行為は実はとても難しいことだということです。

 

学生作品の中には、社会に何の役にも立たないけどすごい!と思うものがあったりします。

これを役に立たないと言って切り捨てることもできるのですが(ちょっと前の自分ならそれで片付けていたでしょう)、そもそも彼らはそんなことを意図して作品を制作したわけではないことに気づくべきです。

一方、これとは逆の体験として、とある著名デザイナーの活動を知ったとき、すごい(社会的に評価が高い)けど全然興味持てないなという感想しか出てこなかったことがありました。

デザイナーである以上、デザインとしてどうかという視点で評価するのですが、それでも結局のところ観る人の個性、思想に簡単に左右されてしまうものです。

これらの体験を通して、デザインの良し悪しは究極、本人にしか測れないものかもしれないと思うようになりました。
それがたとえクライアントワークであったとしても同じことです。

なぜなら目標を決めたのは本人だし、他人がそのデザインを評価するとき作者と同じ価値観で捉えることは厳密には不可能だからです。
だから、究極的には人に何を言われようが自分が納得したかどうかしかないわけで、ひたすら自分の興味に従って追求していけばいいと思うのです。
そして、評論というのは美術、文芸、映画などジャンルに関わらず、作品を客観視しているつもりが、いつの間にか自分自身のスタンスを客観的に浮き彫りにするものなのだと思います。

 

さて、ではデザインを指導しなければいけなくなったときはどうすればいいのか?

私は決して野放しが良いとは思えせん。

最初は作品をつくる本人も実は自分が何を意図しているのかわかっていないことが多いです。そこで、本人の潜在的な意図を顕在化させてあげる良き相談役に徹することが重要なのではないかと考えます。